2006-05-12

李花の祭り、李花の舞の由縁

mai.jpg訂正:文中、梨花とあるのは、李花でした。大鹿村の方からご指摘頂きました。ありがとうございました。

梨花の祭りとは、南北朝のころ南朝の宗良親王が大鹿村を根拠地にして、南朝方の将として活躍されたが、南朝方は日々に衰退し、無念にもこの世を去られたとの事で、その後この村々の人により永く供養され、崇敬され今日に至っていたところ、昭和年代に信濃宮として神社が作られ、この神社で宗良親王を祀ってこられてとの事です。

ろくべん館管理者の方からの話しですと、
信濃宮の祭を『梨花の祭』と呼ぶようになったのは、平成元年からのことだそうです。
呼び名の由来はやはり、宗良親王の編纂された「梨花集」から取ったものです。
との事です。

梨花の舞の由来
さて、梨花の舞ですが、これは右馬ノ允の女将さんである前島重子さんが、創作され
たものとのことです。
彼女はもともとダンスをやっていた方だと思いますが、日舞もやられるようです。
最初、この梨花の祭が始まった頃は、前島さんが自ら踊っていたそうですが、何年か
経ってから他の方にバトンタッチしました。


ろくべん館管理者の方からの最新のコメント
ご存知のように、信濃宮は戦時中、創建が決定され、各地から学徒が勤労奉仕で集め
られたり、献金を募ったりされたのですが、ついに終戦までに完成することはありま
せんでした。
終戦後、昭和23年11月にやっと鎮座奉祝祭をあげ、完成を見たのでした。
それ以後、例大祭として、4月28日に祭を行ってきたのが、梨花の祭の原型と思わ
れます。
戦時中、戦意高揚を意図し創建を企画された神社であっただけに、南朝の大将とし
て、「君のため世のため何か惜しからん 捨ててかひある命なりせば」の歌に象徴さ
れる、武人としての宗良親王を奉ってきたのでした。
しかし平和な世になって、例大祭が時勢にそぐわなくなってきたこともあって、元号
が平成と変わったのを機に、歌人としての宗良親王の霊をなぐさめようと祭りの形態
を変え、平和と文化の向上、村の発展を願うことを趣旨に梨花の祭が始まったのでし
た。梨花の舞もこれを機に始まったようだとのことでした。

ありがとうございました。

梨花の舞は5月5日に舞を舞われていた人にお聞きしたところ「君を偲びて」と言う舞で、親王を慕って舞われたそうですが、この舞は毎年踊るそうです。激しさと、静けさが組み合わさった踊りで、踊り手さんの衣装がずれてしまうほどでした。今の人は2代目だそうです。



上記記事は昨年9月14日15日にブログでご紹介したものをコピー掲載しました。

私は今年初めて行ってみましたが、これは多くの方に見て頂きたい祭り、踊りだなあと思いましたが、今のところこの地域の方々のお祭りの様で、私達が行っただけでも駐車場がいっぱいになってしまい、地元の方々にご迷惑をおかけしてしまいました。来年のことに関しましては、この駐車場をどうするか、地元の人たちの静かにお祭りをしたいという思いをどうすれば保てるかということがはっきりしましたら広くご紹介したいと思います。

なお、5月3日の歌舞伎の熊谷直実、新田義貞の子の初代天龍村熊谷貞直が大鹿村にきた宗良親王をあちらこちら案内したなど、またこれからご紹介します阿智村にある梨花集歌碑等この地方が、一つの物語のように繋がっているかもしれないと楽しくなります。もしそうであれば、3点を結んだ一つの面としての観光ルートになりえるので今後良く調べてみます。それで昨日天龍村に在住の歴史に詳しい人をお尋ねしましたので出来たら明日ご紹介します。