原家の四脚門
村の資料によると、戦国時代末期、武田信玄の西上の折、下條氏の旗本原氏が下條氏に代わり東三河の武士達と戦をして城を陥した功績により、武田信玄から下條氏に対し感状が送られ、これにより下條氏はそのお礼として原家に写真の四脚門と、槍一振り、武田信玄の感状を添えて送ったとのことで今も保存されているとのことです。なお、この門も個人所有の家の中にありますので見られる際には、道路からご覧になるか、よく見たいという場合は、家の人にお断りして見てください。
下條村や、南信州観光公社の主催する銘木・巨樹を見る会で一緒に歩きますと門前まで案内して頂けます。
この時代がどうなっているか調べるのには、長野県下伊那地方事務所商工雇用課様によって作成された、伊那谷年表2を見ると戦国時代の末期の様子が良く判ります。もし、この時代、武田信玄が病気で亡くなるということがなければ、この四脚門が立てられたのが1557年、武田信玄が病死したのが1573年、本能寺の変が1582年、下條氏が徳川家康傘下に入り、最終的に滅亡したのが1587年。本能寺の変以前に武田信玄が小田信長を倒していれば歴史は大きく変わっていたかもしれません。その時歴史は動いたと言うことがよく言われますが、一人の英雄の死が歴史を大きく左右した時代。もっとも、そのときの天下人がだれであろうと、家中の掌握がうまく出きていなければ、滅亡に追いやられるのは時間の問題と言うこともありますから、単純に下條氏の歴史が大きく変わっていたかどうかはなんともいえませんが。たいへん勉強になることだと思いました。
長野県下伊那地方事務所商工雇用課様作成
伊那谷年表2
下條村の下條歌舞伎が23日あります。詳細は、
下條村商工会ナビをご覧ください。
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